般若心経

このセクションでは 般若心経
を扱う。心を構造的に把握するメタファーのシステムは、福音書・老子・ギーターに比べると強いとは言えないが、心を表層意識から深層意識へと変換することにかけては般若心経には
マントラによって変換する独自の工夫がある。
般若心経の中心「般若波羅蜜多」が心の表象像に当たり、羯諦羯諦・・・のマントラが表層意識から深層意識へ、此岸から彼岸への心の転換を促す。ここでも
表象像が作る、表層意識と深層意識の極性に基づいて、図の上から下へ心を変換するという基本は同じである。
般若心経はきわめて短いので以下にその原文と現代語訳を掲げておく (段落を区切る番号は私が付けた)
原文 仏説摩訶般若波羅蜜多心経
1観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。2舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。3以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。4故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。5即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経
現代語訳 中村元訳 岩波文庫
全知者である覚った人に礼してたてまつる。
1 求道者にして聖なる観音(聖アヴァローキテーシュヴァラ)は、深遠な智恵の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見きわめたのであった。
2 シャリープトラよ。この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(ありうるの)ある。実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。(このようにして)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないといいうことは、物質的現象なのである。これと同じように、感覚も、表象も、意思も、認識も、全て実体がないのである。シャリープトラよ。この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。それゆえに、シャリープトラよ実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、認識もない。眼もなく、(耳もなく)、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼の領域から意識の識別の領域にいたるまでことごとくないのである。さとりもなければ、迷いもなく、さとりがなくなることもなければ、迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制してなくすことも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。
3 それゆえに、得るということがないから、諸々の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることもなく住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、傾倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。過去・現在・未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、智慧の完成に安んじて、この上ない正しい目ざめをさとり得られた。
4 それゆえに人は知るべきである。智慧の完成の大いなる真言、おおいなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮めるものであり、偽りがないから真実であると。その真言は、智慧の完成において次のように説かれた。
5 ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ)ここに智慧の完成の心が終わった。
般若心経の内容は5段落に分けることができる
1「般若波羅蜜多」を行じると苦を逃れ、「空」の世界に入ることができる。
観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。
照見五蘊皆空。度一切苦厄。
「観自在菩薩が般若波羅蜜多を行じているとき、五蘊=身心はすべて空であると主体的に把握して、一切の苦から脱却した。」これに倣えというのが般若心経のテーマである。(五蘊について中村訳ではやや唐突に「存在するものには五つの構成要素が・・」としてあるため誤解しやすい。原文の五蘊は「色」(もの)と残りの4つは「受・想・行・識」という心の働きである。したがって身心を表す。)
要は心を「般若波羅蜜多」によって身心を「空」へと変換して、すべての苦悩を解消することができるという話である。
ここに出てくる「般若波羅蜜多」が何であるかが一番の問題である。というのも、般若心経は「般若波羅蜜多」によって心を「空」へと調整するお経だからである。
中村訳では「智慧の完成」となっている。内容自体にそういうものが孕まれているのであろうが、まことに一般的になってしまう。もちろん逐語訳からはズレてくる。もともとの意味は、般若が智慧で波羅蜜多は向こう岸へ渡ることを意味する。つまり、「般若波羅蜜多」とは「向こう岸へ渡る智慧」である。ところで、「智慧の完成」も「向こう岸へ渡る智慧」も実は同一である。心の本質を把握する究極の智慧はまたそれによって心の変換を促す能力があるからである。「智恵の完成」は非常に都合のいい内容である。それは「具体的普遍の真無限」(ヘーゲル)、「善のイデア」(プラトン)を意味するからである。そして実際にそれを行じるのは真言のマントラを使うということである。
2「空」については以下のようである
そこで「空」とは何かというと「色」(もの)ではないものである。ところが、「色即是空、空即是色」と般若波羅蜜多の行によって表層意識から深層意識へ変換された、絶対の世界では、「色」(もの・身体)はその性質を減じて、「色」でありつつ「空」、「空」でありつつ「色」の事態が起こる。受想行識も、これと同じとあるから、我々の考え方では諸現象がそのまま諸現象の統一としての光となり、光はそのまま諸現象を可能的に宿している。アリストテレス流に言えば可能態が現実態となり現実態はまた可能態となる。そこで現象界にあるものをすべて否定していく。物質的現象はすべて本来実体のないものである、ということである。この「空」についての中村元の訳では、ただ実体がないですましているように誤解されやすい。受想行識、仏教で言う意識から感覚器官の働き、そしてついには知恵の働きまでをも否定する。「空」とはそのような絶対世界の中にいる状態である。第1段落から言っても「空」はただ実体がないのではなく、苦厄を離れた状態、つまり気分のいい状態をも意味する。
3般若波羅蜜多は以下のようである
前に述べたように、
般若波羅蜜多は般若が智慧、波羅蜜多は向こう岸へ渡ることで、
字義通りには「向こう岸へ渡る智恵」である。般若心経は「般若波羅蜜多」によって、
心を「空」へと変換することが主題であるから、心の構造が分かっていなければならない。
つまりその知恵が把握されている状態として、心の運動についての表象像があることである。 それは漠然としていようがはっきりしていようが、何らかの、言語によって内的現実を表象する像が存在しなければ「般若波羅蜜多」なるものは存在しないことになる。実はこの経典では「般若波羅蜜多」そのものについての明示が何もないので、漠然と表層意識から深層意識へ心を変換する自己理解であることになる。それが悟りの内容でもある。それなので、個人の自覚の深浅、それも相当に漠然としたものに依存することになってしまうのである。
菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩
悟りを開いた人は「般若波羅蜜多=向こう岸へ渡る智恵」に依るから、心に障りがなく、恐れもない。三世の諸仏も「般若波羅蜜多」に依るので無上の正覚=完全な悟りを得ているということである。
ところで、この場合も、認識主体が把握する「般若波羅蜜多」についての表象像が存在しなければならない。宗教言語が作る真正な命題は内的現実=心の構造についての像である。それは一体どこにあるのだろうか。それは「色」の否定を通しての「空」についての言及がそれであるのか。無罣礙、無有恐怖、あるいは顛倒夢想を離れるなどが心の状態について言及しているが、この程度で像になるのだろうか。ここに般若心経の限界がある。向こう岸に渡る「般若の智慧」が明示できていない。
それは「善のイデア」であり、心の構造であり、光に基づいた生の分裂統一運動である。我々の言う「心の原理図」である。それがはっきりと存在することで、表層意識から深層意識へと心の位置を態度変換によって移行することが可能になる。精神が自分自身についての像を把握するには、じわじわと類比的に把握されていく。その時、強い類比、明確な類比で把握することが出来るのか、それとも弱い類比で把握することになるのかによって、使う経典によって効果に違いが出てくる。一般に神の啓示のレベルになればなるほど強い類比となり、真実在に対する模倣力がある。優れた芸術が美を模倣するのと似ている。
明示はしていないが、それでも、「般若波羅蜜多」=「善のイデア」は隠れて存在している。だからこそ、第4段落での真実不虚が宣言されているのである。
4この「般若波羅蜜多」の像自体が心の運動が作る極性において、「色」から「空」の世界を志向しているから、真言のマントラは、像と分けることは出来ない。だから、この智慧のマントラは「是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。」となるのである。
5掲諦掲諦・・のマントラについては以下のようになる
羯諦羯諦波羅羯諦 (往こう往こう向こう岸へ渡ろう)
波羅僧羯諦 (完全に向こう岸へ渡った)
菩提薩婆訶 (悟りの像よ有難う、おかげで助かった)
ここで重要な役割を果たすのがやはり「般若波羅蜜多」=向こう岸へ渡る智慧である。
これがしっかりしていないと以下に示すように、渡りようがない。
此岸から彼岸へ移行するための、表層意識から深層意識へ渡るための、心の口癖(真言のマントラ)を本気で唱える。
最後にある菩提薩婆訶が彼岸到達の成功を意味しているから、はじめの羯諦は出発点で、波羅僧羯諦は着地点である。だから、
1行ける行ける、向こうへ行ける (現在進行形)、
2完全に向こうへ行った (現在完了形)、
3智慧よありがとう (感謝)、というふうにすると自然である。
このとき、心の内観が未発達で、此岸がどこで、彼岸がどこなのかがまるで見当がつかず、混沌としていては彼岸へ行くことは難しい。また、此岸がどこで、彼岸が漠どこかが
漠然と何となく分かっていても、心の運動法則をはっきりつかんでいないと、思い通りに行かず、効果が薄い。
この此岸から彼岸へ移行するのにはっきりした方向指示をするのが我々の「心の原理図」である。「心の原理図」は表層意識から深層意識への変換の「態度・衝動・光」の重層性を伴った明示である。これこそが強い類比の「般若波羅蜜多」である。
「心の原理図」は明示的であるが、それでも幼稚園児に分からせようとしても無理である。やはり一定の試行錯誤を経た心に対して、時宜を得たときに効果を発揮する。
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